9月1日 防災の日に②
妻が、無事に裏六甲の私の実家にたどり着いたことを知ったのは、その日の夜遅くでした。
最初の電話以後、愛媛からも神戸からも電話が全く繋がらなくなったからです。妻が試しに公衆電話からかけたところ、運良く宿舎に繋がったのです(それからの通信手段は、公衆電話になります)。
北区の実家は、外壁が一部崩れた程度でライフラインに影響はなく、灘区の惨状を見てきた彼女は、受話器の向こうで「噓みたい」とつぶやき、「バイクで会社の様子を見に行ってくれたOさんが、5階建て本社ビルの3階が潰れ、くの字になっていると言ってた」。と小さな声で話しました。
翌日から、私を含め三人の社員は暫く愛媛に残り、仕入れたばかりの真珠を選別し、三重の工場に送る作業を始めました。一刻も早く商品化し、現金化するためです。
その頃、神戸の社員はライフラインが途絶え、余震が続く本社ビル4階の金庫室の扉と格闘していました。激しい揺れにより躯体の上下から圧力を受けた厚さ20㎝の鉄の扉が変形し、びくともしなくなっていたのです。